くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

透明と薄明の間。

うだるような暑さの中で起き抜けても、結局やることもなすこともなくて、なんだかんだで涼しい場所を選んでぐったりしています。

もはや体力なんかもそんなにありませんし、去年までずっと夜勤してたので、この日差しを浴びるには僕はいささか脆弱すぎます。

夏は太陽が少しばかり強すぎるし、冬は少しばかり寒すぎるし、なんだかこの世界はやっぱり少しばかり生きづらいです。

 

僕の家から駅へ行くまでに小学校の横を通らなきゃならないわけですけど、もう塩素の匂いとかすごいです。

プールってやつが今年も開催されるんでしょう。

あー、もうそんな季節だよなー、暑いもんねぇ。

 

夏の時期、僕が店にいると全く人が近寄ってこないです。

なんでかって、最近気づいたんですけど、僕の腕からもれなく無駄にいかつい入れ墨がやたらと露出されているからだと思います。

まあこういうものは隠すのが筋というものですし、モノホンの方々に何度か絡まれたこともありますが、あれはあれでめちゃくちゃ鬱陶しいので、やっぱり半袖で外を歩くのはヤメだと思いました。

だからといって、こんなクソ暑い中、長袖ジャケットはなあ。

 

16歳の頃に左腕に入れた頃から、まあそれはそれは無駄にしっかりと彫り師の元に通って、22歳になるまでに、あと入れられるところは顔と腹と足くらいだね、というくらいになりました。

こういうのを無駄っていうんです。

口説いた女の子がよくワンナイトラブ以降連絡がとれなくなるというのも、これが原因だったりしないでもないような気がします。

ああ、そういえばさっきちょっとタトゥーのサイトなんか見てて気付いたけど、範囲でいうところのちょうど今のベッカムくらいですね。

顔はレオナルド・ディカプリオですけど。

 

まあ僕は年を取るに連れて、嫌いなものがやたらと増えているような気がして仕方ないのですが、この入れ墨だけは、未だにカッコいいと思えるものの一つです。

友人なんかには「じじいになったらきついよなあ」とか云われますけど、今からじじいになった時のことを考えてもいたしかたないですし、じじいになったらじじいになったなりに考えってのが出てくるでしょう。

あとは、就職先に困るってことなんでしょうけど、ここんとこはわりとなんとかなると楽観的な思考をしているので不安になったことはありません。

入れ墨で困るのは、まあ強いて云うのなら、もれなく友達が少なくなることと、女にモテなくなることと、たまにちょっと厄介なおじさんやおにいさんに絡まれることくらいです。

もちろんプールとかジムとかいけないんですけど、それはまあ別にどうだっていいです。

 

まあいわゆる記号ってやつですよね。

僕自身ぜんぜん他人の目とか気にしない人なんでアレですけど、「アレしてるやつはアレだから、アレだぜ」ってやつ。

自分で云うのは何ですけど、この記号って奴も、案外侮れないです。

僕も多少若い頃は思ってましたし、子供はよくいうんですが「人を見た目で判断する奴云々」とか「そういう偏見があると云々」とか。

まあ僕の場合は、そういうの全部戯れ言でしかないと思ってるんですけどね。

僕自身の経験からすると、入れ墨してる奴にまともな奴がいた例がないですし、学生時代に金髪だった奴は僕然り、やっぱまともな奴はいません。

間違って入れ墨とか入っちゃうものじゃないし、朝起きたら金髪になってる奴とかいないからです。

まあ自分の意思をもってそういう行動してる。

んで、僕はその意思って奴をあんま信用してないんで、意思を意志レベルまであげちゃうとすると、もうそれはそれで厄介です。

結局、人は自分が生きやすい人生を作りたいものですから。

んでまあ僕もご多分に漏れず「金髪だからなんだっていうんだ」とか思ってましたけど、ここんとこは「まあ俺はあのころは金髪だったし仕方ねえよなあ」と思うようになってきました。

でも後悔してるかって聞かれると、意外とそうでもありません。

 

僕は生まれながらの誇大妄想狂であるが故に、たまに爆発したくなるときがあります。

毎日が楽しいとか大ボラ吹いている人たちがちょっと信じられなくて、たまに爆発させたくなります。

とはいえ、犯罪はしたことがありません。

たぶん僕が犯罪をしないのは、親からの教養があって、それなりに理解ある友達とかいて、家にうさぎとかいて、犯罪するほど不幸でもないからだと思います。

だけど、たまにニュースで通り魔とかが「誰でも良かった」とか云うのを聞くと、その気持ちが全く理解できないわけでもありません。

 

僕を「いなくなったもの」として判断していた人物に対して行動を持って存在を証明させてやると思っていた頃があります

そういうことを考えると、僕はただその行動の矛先が犯罪に向かわなかっただけだったような気もします。

多分ああいうのは「キレた時期」を逃してしまうともうできません。

あとは多分死期を待つだけです。

 

一時期、僕はジャズピアノでそこそこ評価されました。

評価されたというのも、それだけじゃ生活はできないというくらい、かろうじてちょろっとお金もらえる程度になったくらいで、ずっと「もっとデカいことやれる」と思ってたんで過程では不満ばかりでしたけど、それでも今考えるとやっぱりちょっとは評価されたほうなんじゃないかなって思います。

まあ結局やめちゃったんですけどね。

今更名残惜しい部分はぜんぜんないので、積極的な撤退だったと思います。

 

で、何が云いたかったのかというと、僕はこうなるべくしてこうなっている。

この言い回しが正しいのかわからないですが、たとえば友達がいなかったり、恋人がいなかったり、仕事に困ったりするのも、自分がなるべくしてなってる、ということ。

さんざん云いますが、自分で望んでこの場所に来たんです。

だから僕は今「この場所」にいることを、嘆いてはいけないと思うんです。

僕は好きでこの場所にいるし、望んでこの場所に来た。

だから、生まれ変わったりしても、たぶんまたこの場所に来るんです。

 

確かに幸せそうな人とかたくさんいる。

でもまあ、それらは僕からはほど遠く離れた人々のストーリーなわけであるが故に、いきなり天から神様とか降りてきて人生やり直させてやるとか云われても、やっぱりやり直したくねえなあと思うのです。

今の現状に満足しているわけではないですが、もう1回自分やり直したところで、ここでこんなこと思ってるだろうことには変わりないからです。

確かこういう考えを永劫回帰っていうんだった気がします。

学生時代に知りました。

僕はというと昔から自分本位のエンディングを期待しながら、「こうなってしまった」を信じられないことに何度も何度も受け入れてきたんですよね。

 

僕はそういう意味でも自分の人生を他人のせいにはしてはいけないということになっています。

僕はこういう風に生きたいとずっと望んでいたんです。

というか、そういうことになっています。

だってどう考えたって、自分で険しい崖を上って、高くはないにしても誰もたどり着けないような誰かと一緒にいられるスペースもないような場所に佇んで、「誰も来ない」とか「こんなとこ来るんじゃなかった」とか、そんなこといったってどうしようもない。

後は飛び降りるか、万が一の確率で誰かが来るのを待ったりするだけです。

もっと取り返しのつかないことに、僕はなんとなくわかっていたんですよね。

あそこに行けば「こうなる」んじゃないかってことも。

 

んでまあ、これらの感情に善悪も好悪もありません。

ただ、そっちからしか見えないものもあれば、この場所からしか見えないものもあるってことです。

 

たまに「あっちからはどんな風に見えるかな」という妄想をしたいだけです。

やり直すには、勇気を持ってこの崖から、飛び降りるしかありません。

 

なんでこんなこと書いてるかっていうと、知り合いの一人がまた結婚するらしいからです。

別に結婚するとかどうでもいいですし、がんばってくださいねくらいにしか思わないですけど、ふと「自分の存在について」なんて考えた時にやっぱ誰かに認められて評価されて、多少希望あって、ってことは大事なことなんだろうなーと思いました。

「必要とされる」どれだけの人がそれを求めて、どれだけの人が散っていくのか。

僕はというと、過去に僕のことを本当に「必要としてくれた人」をたくさん裏切って、そして挙げ句にその裏切ったことを心の隅では美しいことだと思ってしまった人なので、これから先の人生が真っ暗でも弱音は吐いちゃいけないことになってます。

 

そして僕は「弱音は吐いちゃいけないことになっている」ということを誰かに弱音として吐いて、慰めてもらったら、そのこと自体をまた美しいことだと感じてしまうと思うので、一番救いようのないタイプだと思いました。

 

そして救いようのないこともまた美しいと思ってしまえたら、たぶん僕はこれからもなんだかんだで生きていけるような気がするんです。