くうちゅうくらげ

-A Boys Named No.28-

おまつりもはなびもおしまい。

なんだかなあ。記事書いてもUPしなくても良いような気がしてきた。見てる人がいるとかいないとか関係なく、ふとそんな風に思った。

 

散々人の記事は見ない方だと云ってきているものの、まあ僕のブログを見に来てくれる人のところくらいは訪問しようかなーという、圧倒的なやる気のなさと見捨てられ損の性格が災いして、これだけはどうもやめられそうにない。

 

で、今日思ったのは、僕の記事はあんまり更新する必要ないんじゃないかということです。それでも1年後とか5年後とかインターネット残ってるかわからないけど20年後とかの僕が振り返るものとして「やめる」ということは考えていないのだけど。

 

なんでこんな風に悩んでいるかというと、ブログってのはそれぞれ「武器」があるような気がするからです。これって自分では気付かないだけっていう例の現象かもしれないんですけど、他の人の記事はある程度「筋」が通ってる気がする。一方僕はというと、ジャンルもコンセプトもあっちゃこっちゃで、結局「どういうものがどういう方向で」が書きたいかわかんない。「何が書きたいのかわかんない」が肝じゃないというところが重要だ。「何が」はある程度自分でもわかっているつもり。

 

たとえば。写真載せるなら、綺麗な写真を常に載せて、仕事のことを書くなら仕事のことを、他者を批判するなら誰に何云われたって常に批判し、エロいものなら終始エロさを、バカらしさなら圧倒的なバカらしさで、詩的なものを書くなら気持ち悪いほど毎日詩的に、ただの日記ならただの日記で、精神論ならずっと精神論で。まあそういう「芯」みたいなものが、自分にはねえなあと思ったのです。

 

「生きる理由」なんて書いちゃうと飛躍しすぎかもしれないけれど、「ブログを書く理由」という意味でコンセプトや方向性はある程度一致させていきたいなと思う。それはなんでかというと、中途半端なのが一番生きづらいからです。

 

なので、駄文はサブのほうでアゲマス。というか本当は僕が「芯」として書きたいのはサブのほうの内容なんじゃないかと昔から思っている。そのあたりも明確に答えが出そうになるまで瞑想したいと思います。

 

もちろんその答えってやつが「やっぱり俺はこのままで良いような気がしました」って結果になってもそれはそれです。

 

半年に一回くらいこういうこと考えて、また平気で元鞘に戻ってくる自分をあんまり信用もしてませんが、そんなわけでちょっとしばらくの間は見るほうに行こうかと思います。ちょうどバイトで忙しいし、試験も目前なので、ちょうどいい機会だし。それでも書きたいときは書くだろうけど。むしろ絶対に書きたいものしか更新しないように、少しの間は心がけようと思う。ここのところは無駄に一種の自己強迫観念に書くことに追われてしまっていた気がする。もう一度無駄に書くけど「やめる」ということは今のところ考えていない。

 

書くほう離脱。離脱というかのんびりやる。